アジア連帯経済フォーラム
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   連帯経済への視点

   一人だけでなく、みんなが食べられる世の中へ


   ホルヘ・サンティアーゴ(DESMI顧問)


この土地に住むわたしたちが主体となって、地域社会を変えていきたい―― メキシコ・チアパス州のNGOであるDESMIは、一九七〇年代以降、目の前にある貧困から抜け出すため、協同組合の組織化を行ってきた。そして九〇年代以降は、「ともに尊厳をもって生きる」ことのできる社会の実現を目指し、地域に根ざした連帯経済を追及している。DESMI顧問のホルヘ・サンディアーゴさんにDESMIの取り組みの背景と未来について聞いた。

★三〇年前から始まった連帯経済の取り組み
 現在、チアパスで行なわれている連帯経済の取り組みの根底には、「いまの社会を変えたい」、「オルタナティブを構築したい」という希望があります。私たちはこれまで、社会変革の方法を模索してきましたが、その基本は「人を主役にして社会を変えていく」ということです。人間はみな現実の中に生きています。だからいかにして自分たちの現実を変えていくか、ということからスタートしたのです。  連帯経済が生まれる起点は、一九六九年に遡ります。先住民族の村に住み込み、布教活動を行なうカテキスタ(説教師)やカトリック教会、政府や学者が、プエブラ州で大きな会議を開きました。開催された地の名をとって、「ヒコテペック・デ・フアレス会議」といわれています。会議の目的は、教会関係者や学者、政府がこれまで果たしてきた役割を評価すること、またどうすればいまの社会を変革できるのかということ、さらにどのようにすれば先住民族といわれる人たち自身が、歴史の主体になれるかを議論することでした。
 参加者は人類学者や社会学者、教会関係者など著名な人たちで、たとえばアンヘル・パレルモという人は、先住民族が歴史の主体になるための研究機関「シエサス(社会人類学高等調査研究センター)の創設者であり、サロモン・ナーマという人は土地を獲得するための先住民族ウィチョルの運動にかかわっていました。ギジェルモ・ボンフィルは、メキシコの歴史とアイデンティティを植民地時代以前の先住民族文化に遡った『ディープ・メキシコ』という名著の筆者です。メルセデス・オリベーラという人は、チアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカサスで先住民族女性の権利獲得の闘いにかかわり、後にすべての女性のための権利センターを創設しました。
 チアパスからは、サンクリストバル司教区のサムエル・ルイスや、先住民族の活動の支援センターである「CENAMI(全国先住民布教支援センター)」のメンバーが参加していました。サムエル自身は、教会の伝道活動がどのように先住民族に貢献できるのか、地域に根づくための教会のあり方とは何なのか、ということを考えていました。歴史を振り返ると、教会は先住民族のことばや文化を上からの押し付けで壊してきてしまいました。その負の経験を繰り返したくないと彼は考え、先住民族の文化に根ざした伝道活動を模索したのです。実際にこうした伝導活動を担ったのは、カテキスタと、ディアコノ(助祭)と呼ばれる人で、先住民族の村で宗教的な結婚などの儀式や催しを執り行なう人たちです。サムエルは、解放の神学の影響を受けた人で、その思想に基づく社会的な変革と正義を求めていました。と同時に、「インディオの神学」といわれる概念についても重要視していました。先住民族の思想や神話、色に対する概念や世界認識などには、宗教的な教えのメッセージが含まれています。これらを総合したものがインディオの神学です。サムエルは、解放の神学とインディオの神学は別のものではなく、人びとの解放を求める上で共通するものだと考えました。

★主役はわたしたち――先住民主体の社会開発
「ヒコテペック・デ・フアレス会議」後の一九七〇年、サムエルは「全国先住民司教センター」を設立し、先住民族の共同体に根ざした教会を実践します。またちょうど同じ時期の六九年に、サムエルをはじめ社会問題に関心を抱くグループが、「メキシコ先住民経済社会開発市民連合(DESMI)」をチアパスのサンクリストバルで設立しました。 私自身は、ヒコテペック会議にも参加し、その後一九七二年から七四年までは全国先住民司教センターで働き、七四年からはDESMIで働き始めました。伝道というレベルではなく、先住民族の人たちが主役となるような実際の社会開発の実践活動にかかわりたかったからです。
 実は七四年というのはチアパスにとって非常に重要な年でした。カトリック教会主催の先住民族会議が開かれたのです。これは先住民族のために力を尽くしたフライ・バルトロメ・デ・ラスカサスを称えた集まりだったのですが、会議の内容は先住民族の人たちが、自分たちの状況をどのように考えているのか、そしてどのように変えていきたいのかを考えるというものでした。その結果、土地、商業(生業)、教育、保健・衛生という重要なテーマが先住民族の人たちから出されました。これらを改善するために闘う必要があると、人びとは改めて主張したのです。そして、「もうわれわれ先住民には、フライ・バルトロメ・デ・ラスカサスのように、外からやってきて何かをするような存在はいらない! そういう存在を自分たちの中から出さなければならない」ということを訴えました。
 こうした声に基づいて、DESMIは、飲料水の普及や道路建設、病院の拡張、牛乳や古着の配給などの取り組みからスタートしました。主要なポイントはコミュニティを組織するという活動でした。まずは住民に組織という概念を理解してもらい、組織することがいかに難しいかをわかってもらおうとしました。その中で、人びとにとって何かひとつのモデルになるような組織の必要性を感じ、協同組合という形を提示しました。しかし、いくつかの協同組合やプロジェクトでは、生まれた利益が共同体ではなく個人のものになってしまっていました。そこで生まれたのが、「協働労働」という概念です。これがオルタナティブを模索する際の一つの解決策になると考えました。

★どうしたら国家とわたりあえる?
 九〇年代に入って、この協働労働という概念から連帯経済へと移行していきます。変革を求めるためには、より広い視野から考える必要があったのです。たとえば協働組合や共同労働にしても、変えなければいけないのは搾取・被搾取という関係性や、社会構造そのものです。すでにフェア・トレードの取り組みなどもありますが、貿易のあり方自体を公正にしなければならない。ですからこうした構造的な変革を視野に入れた組織をつくる必要があったわけです。
 一九九四年にサパティスタがチアパスで武装蜂起する直前、先住民族のコミュニティでは、七〇年代、八〇年代に出された課題──商業や教育、土地、保健・衛生などは二次的なものとなり、最も重要な課題は、いかにして政治的な組織化をはかるかということでした。そのとき、先住民族のコミュニティの中にはさまざまな考え方がありました。政党をつくり構造的な改革をめざそうという人たちもいれば、政党とは違う独立組織をつくり、政府と交渉していこうという人、あるいは政府と交渉しても埒が開かないので、政治的かつ軍事的な組織をつくろうという人たちもいました。
 DESMIとしては、国家との関係性を考えた場合に、武力をもつことを認めた時期もありました。これは非常にデリケートな問題をはらんでいますが、私たちの活動の基本は、住民が自己決定し、コミュニティを強化していくということにあります。それと同時に、構造的な変革をする際には、人びとが自らを守ることも重要だと考えてきました。いくら自分たちの権利を訴えても、国家はその動きを抑圧・弾圧してきました。国家と交渉するとしてもそこには限界があったのです。たとえば一九九四年にサパティスタが蜂起したとき、先住民族たちが武装蜂起したことで政府は身構え、直接むきあわざるを得ませんでした。それまでは先住民族がどんなに組織を強化して政府に訴えても見向きもされませんでした。私たちが武力保持を容認したのは、このように政府に対するプレゼンスとしての必要性という意味だったのです。

    ★地域に根ざしつつ世界に開くコミュニティ
 以来、私たちは「もうひとつの世界」のモデルとしての連帯経済を、意識的に取り組んできました。連帯経済を実現するためにはいろいろな要素が必要です。経済的なものや政治的もの、文化も含まれます。こうしたさまざまな側面での実践を通じて、ローカルなレベルでの新たな関係性を築くことを可能にする取り組みです。そこで大切なのは、まず地域に根ざすということ、それから基盤となる構造をもつことです。「地域」といっても閉じるわけでもなく、グローバルな状況に対して常に開いていなければならない。また、連帯経済が結果を出すためには、ある部分では効率が必要になりますし、問題解決能力をもつことも大切です。そうした力をつけるため、運営・経営能力や技術など、さまざまな面での教育訓練・研修も行ないました。
 二〇〇三年頃、DESMIが連帯経済の構築を追求する一方で、サパティスタ自身は自治を非常に強く主張していました。DESMIの連帯経済とサパティスタの自治は、経済と政治の両輪のようなもので、お互いの実践を通じて、ローカルなレベルから社会を変えていく挑戦です。それをどんどん広げていって、グローバルな世界の変革を目指すようになりました。
 たとえば一つの例を挙げましょう。先住民族に限らず、農民たちはトウモロコシをつくっても安い価格でしか売れません。なんとか高い価格で売ろうと努力しても、北米自由貿易協定(NAFTA)のせいで、米国から安いトウモロコシが流入してきて結局価格は上がらない。これに対して、私たちはまず農民の組織化を提案し、協同組合や教育訓練、他の生産者との関係づくりを行ないます。これは価格を上げるというよりも、むしろ市場に依存しないでいける組織をつくることを考えているからです。
 「市場に依存しない」という意味は、コヨーテと呼ばれる仲買人だけしか売り先がない状況を脱し、もっと別の人や他の市場などの売り先をもつということです。あるいは売るのではなく、交換してもいい。そうした関係性の豊かさをめざしているのです。経済的な自立とは、より多くの人や場所に依存するということです。また、市場が決めた時期や価格でしか売れないのではなく、自分たちの決めた価格や売りたい時期に売れるという権利も大切です。さらにトウモロコシなどの単一の作物だけではなく、豆や野菜、薬草、コーヒーなど多様な作物をつくることで、コミュニティが持続可能なものになるのです。

★複数性──それが連帯経済の豊かさ
 この数年の方向性は、ネオリベラリズムとの対比において、連帯経済をさらに進化させるというものになっています。すでにネオリベラリズムは構造的な危機に瀕しています。環境問題や貧困、周辺化された人びとの問題、社会的な正義や公正、個人主義や競争など、もはやネオリベラリズムでは対処できない問題を解決するためには、いままでとは違う価値観の社会を築く必要があります。そのキーワードとなるのが「連帯」です。他者を認めると同時に、他者と一緒に、みんながもっている富をわかちあうこと。一人が食べられることは、みんなが食べられることであり、単にお金儲けをして豊かになるためではなく、ともに食べ、尊厳をもって生きていくという考えに基づいています。
 私たちはこのチアパスで連帯経済を追求していますが、メキシコ国内や中南米全体にも同じような実践が存在します。またイタリア、フランス、カナダなど海外にも「連帯経済」と呼べる動きがあります。当然のことですが、それぞれに違いがあって、名称ひとつとっても、「社会連帯経済」や「コミュニティ経済」「インディオ経済」などさまざまであり、「フェア・トレード」や「協同組合」などの面を強調している場合もあります。私は、こうした複数性こそが連帯経済の豊かさだと思いますし、連帯経済とはこうした複数性の中にあるのだと思います。
 現在、たとえば経済開発や社会開発、あるいはマイクロクレジットや生態系に配慮した農業など個別のテーマを語る人たちは多くいます。しかしそれがイコール連帯経済ではない。連帯経済とはそれらを総合したものであり、個々の取り組みをより広い文脈の中に位置づけ、新たな地平をつくろうとする試みだと思うのです。生産するだけではなく、融資のしくみや、生産者と消費者の関係性をつくること、あるいはコミュニケーションによって情報交換をすることなどが必要です。ですから私たちはいま、保健衛生や教育などさまざまな活動を行なう団体との対話を心がけています。
 二〇〇五年一一月の連帯経済ワークショップは、大きな前進がありました。二〇〇一年からこの集まりを始めたわけですが、最初は大きな不安や疑問がありました。でも今回の集まりを通じて、参加者には何か共通の基盤が築けたのではないかと感じています。こうした集まりの基礎となるのは、与えられたものではなく、自分たちでつくる日々の実践活動です。まだまた足りない点はたくさんありますが、確かな明かりは見えていると実感しています。

(2005年11月11日談/聞き手・山本純一 編集/内田聖子 月刊『オルタ』2006年2月号所収)

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