アジア連帯経済フォーラム
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   連帯経済

   底辺から、実生活の中から 新しい経済を創るための戦略


   イーサン・ミラー(Grassroots Economic Organizing:GEO)


★いまの「経済」に疑問を発してみる
 この数年で、米国では工場の閉鎖や、より低賃金での労働を可能にする「南」の国への工場移転などによって、数万人の労働者の職が奪われてきた。中小企業や家族農業は、大規模チェーン店やアグリビジネス企業の進出のせいで次々と消えていった。地方の村は舗装され、別荘やショッピング・センターへと変えられていった。林業者は借金漬けとなり、利潤を求めて森を切り拓くことを強いられている。多くの人たちがお金がないために基本的な医療サービスを受けられない一方で、製薬会社はこれまでにない利益を上げている。地域の文化や伝統は、テレビやファストフードなどのいかがわしい「文化」の繁栄の陰で消滅してきた。豊かな人間はさらに豊かになる一方で、たいていの人びとは何とか生活をやりくりしている状態だ。
 これ以上の例を挙げる必要はないだろう。 ようするに現在の経済は、私たちに「よりよい何か」をもたらしてはくれないのだ。
 その経済とは、「資本主義」、「自由市場」、「グローバリゼーション」などと呼ばれる。名前はどうであれ、世界中の人びとが、利潤を最優先とする破壊的な経済の影響にさらされている。自分たちの経済をコントロールする権限は私たちにはなく、生活を左右する重要な決定の多くは、遠く離れた場所にいる「専門家」や、謎めいた「市場の力」によって下されているのだ。
では、それに代わるもの(オルタナティブ)とは何だろうか? これまで選択肢はたったの二つだけだった。つまり、資本主義と共産主義である。富める者と企業が権力を持ち、すべての決定を下し、私たちの生活を支配するシステムか、あるいは国家官僚が権力を持ち、すべての決定を下し、私たちの生活を支配するシステムか、そのどちらかだ。まったくひどい話だが、他に抜け道はない。
 そこで現実的なオルタナティブについて問われると、私たちは困惑してしまうか、「唯一のオルタナティブ(the alternative)を見つけなければならない」という思いにとらわれてきた。資本主義でも共産主義でもない、何か別の「大きな構想」や理論モデルが必要だというわけだ。 レーニンの国家共産主義からミルトン・フリードマンの自由市場資本主義まで、壮大な「設計図」を描くという戦略を、左派も右派も採用し、少数者のユートピア構想を多数者の生活に押しつけてきた。しかし、このような社会変革には、さまざまなレベルで間違いなく「暴力」が伴ってきた。まず、「理想の世界像」によって、人間の実生活の多様さと複雑さは壊され、人びとは「唯一の理想世界の住人」となることを精神的・物理的にも強いられてきた。
しかし、「私たち自身」に役割はないのだろうか? 遠大な設計図や少数の「前衛者」の構想に頼らなくても、資本主義に代わる実現可能で広範なオルタナティブへ向かうためには、何から始めればよいのだろうか?

★新しい「物語」を語る
まずは、「物語」を変えてみよう。資本主義経済という物語は、その圧倒的な力によって私たち自身の創造性や可能性、人間としての価値を支配し、覆い隠してきた。そこで語られる「経済」とは、需要と供給によって規定される「市場システム」と定義される。限りある資源の中で、成長と蓄積(利益の獲得)を絶えず追求する理性的で利己的な個人と集団がそのゲームのプレーヤーだ。ゲームの名は「競争」。「経済学」は、この競争とそれに伴うすべて―貨幣、市場、価格、株式、債券、需要と供給、雇用、投資、利益、企業、資本、金融―等を理解するためのものだ。
一方で、資本主義市場に占有されない経済空間は「国家」が占有してきた。国家は経済成長を促進する役割であると同時に、「経済」そのものがぐらついたときの安全装置でもある。国家は資本主義経済が発展するための法制度を整え、また「経済」が供給できない(したくない)基本的な財とサービスを人びとに提供する。国家による市場の規制をめぐっては緊張が絶えることはない。
いずれにしても、このような物語においては、「経済」という空間を定義するのは「市場」と「国家」で、「経済」とは私たちの手の届かない、精鋭の「専門家」だけが理解できる巨大なシステムである。その中で私たちは、「働きバチ」と「消費者」にしかなれない。お金を稼ぎ、消費し、いつでももっとお金を貯めるチャンスを求めているような存在だ。たとえ一人ひとりが創造的で何かの技術を持っていても、お金と資本(あるいは、お金と資本への「欲望」)がなければ、「非生産的」、「後進的」、「低開発」などとみなされる。
 またこの物語の中では、疲弊する地域経済を活性化するためには、「新しいビジネスや投資家を呼び込まなければならない」と語られる。なぜならここでいう「活性化」とは、地域の中からではなく「外」からの投資や資金と雇用創出によってもたらされると信じられているからだ。地元の商店で汗を流して働く人たちや、一人ひとりの生活力は価値あるものとしてはみなされない。
しかし、私たちは本当に「無力」なのだろうか? 私たち自身が、力を取り戻し希望を感じられるような物語を語ることはできないだろうか?

★連帯経済=人びとの経済
 このような物語はどうだろうか。
「経済」とは、需要と供給によって決まる市場のみにとどまらない。人間の経済には、私たちの必要を満たし、私たちを人間たらしめ、夢を追求する過程で生じる様々な社会的関係の総体が含まれる。そして「経済学」は、私たちが、人と人、また人と地球の関係の中で集団的に暮らす営み全体を扱う――それが、「連帯経済」であり「連帯経済学」である、と。
私自身が「連帯経済」という言葉に初めて出会ったのは、二〇〇二年一月、ブラジルのポルトアレグレで行なわれた第二回世界社会フォーラム(WSF)の場だった。このことばは広義には、全世界で実践されている草の根の「協同経済」(Cooperative economics)を指している。同時に、「連帯経済」とは、地域で行なわれている何千もの小さな経済実践を結びつけ、利潤を最優先する経済への抵抗として、大規模で実現可能で、創造的なネットワークを生み出そうとする概念だ。
「連帯経済」の定義をめぐっては、さまざまな論争がある。「連帯経済」とは、ときには資本主義とそれに基づく抑圧的な社会関係を廃止するための戦略を指す。またあるときは資本主義経済を「人道化」する、つまり地域に根ざした「社会的セーフティ・ネット」を張り巡らせることによって、資本主義的グローバリゼーションを修正/補完しようとする戦略を指す。その原理となるのは以下のようなものである。

《連帯経済の主な原理》
・多様性の中の統一
・力の共有(力の支配とは対照的)
・自律性(常に個人と共同の両方)
・コミュニケーション(トップダウンではなく水平的)
・協同と相互扶助(共通の闘い)
・地域における基盤と国境を越えたグローバルな相互連関

 いずれにせよ、具体的には、ワーカーズ・コレクティブや協同組合、共済組合、地域通貨、コミュニティ・トラスト運動、信用組合、フードバンク、労働者自主管理事業など、すでに私たちの周りに存在する多くの経済活動の中に、連帯経済の要素が含まれている。これらはみな、協同、相互扶助、互恵、寛容、多様性などの原理に基づいているものだ。どれをとっても私たちになじみの深いものだが、これまでは「正当な経済」として認められてこなかった。しかし、たとえば工場が閉鎖されたとき、暴風雨が襲ってきたとき、家屋が倒壊したとき、あるいは単に十分な給与がもらえないとき、私たちの生命を維持するのは、資本主義経済ではなく、こうした「人びとの経済=連帯経済」なのだ。
「連帯経済」の最大の目的は、人間の社会生活を維持することであり、相互扶助的な人間社会の再生産を指向している。その意味では「蓄積と成長のための成長」を主な目的とする資本主義経済と根本的に異なるものである。ようするに、株式ブローカーやエコノミストたちの「経済」ではなく、私たちが日々の生活と人間関係によって築いている「経済」である。

    ★連帯経済はすでに始まっている
 そう考えると、水面下で私たちの生活を支え、脈々と実践されている多様な「経済」の働きが見えてくる。創造力と何らかの技能を持った人たちは、まさに資本主義システムの胎内にいながらも、すでに多様な経済関係を生み出しているのだ、と。
「連帯経済学」はここから始まる。
「連帯経済学」は、資本主義の経済学とも社会主義の経済学とも根本的に異なり、一つの大理論で始まるものではない。「オルタナティブとはいったい何か?」という壮大な疑問を持つ人に対して、連帯経済は「資本主義と社会主義を超えた壮大なスキーム」を提示してくれはしない。むしろ逆に、このような設問を投げかけてくる。
「どのような手段で、どういう語彙や語句を使い、どのような倫理的な原則を用いれば、私たちは新しい経済のしくみや人間関係をつくるための共同作業ができるだろうか?」  言いかえれば、「連帯経済学」とは、私たちの身の周りにすでに存在している協同、相互扶助、互恵、寛容に基づく実践を再発見・再評価し、結びつけ、組織化するための手段である。重要なのは「計画」ではなく、経済の「プロセス」であり、「専門家」ではなく具体的な草の根の組織化である。これは資本家と官僚の両方と決別する革命、つまり「経済の独立運動」であり、底辺/生活の中からの革命である。
 では、連帯経済の戦略とは具体的にはどのようなものだろうか。まずはすでに存在している連帯経済の実践の空間を見つけて押し広げ、その過程で新しい、より大きな連帯の空間を生み出す。そうすれば、 私たちの実生活を形作っている個々の孤立した物語は一変し、新しい相互関係の物語が展開できるようになる。
 その過程で、私たちは自己と他者の多様性、自律性、能力、尊厳を認める。自由と喜びを求める自分たちの闘いが互いに切り離されたものではないことを理解する。この「希望のプロジェクト」では、次の四つの点が重要になる。  

▼新たな目で捉える
まず、新しい経済の物語を心に抱いて、周りを見渡して問うてみよう。
「私たち自身の生活の中には、どんな種類のオルタナティブな経済の実践や人間関係があるだろうか? それは、私たちが暮らす地域の中にあるだろうか? 地方には? 国の中には?」と。また「共同、平等、多様性、自己決定などの価値に基づきながら、人びとのニーズに応えているような実践の場はどこにあるだろうか?」と。
これはつまり、地域における調査である。ブラジルでは、各地域で連帯経済を進める個人や団体を調査した結果、数千もの実践事例を集めることができた。それらは公共のデータベースにリスト化され、マッピングもされている。このリストは、連帯経済を推進していこうとする人たちがつながるための情報源となり、また生産者や消費者にとっては、身近なところに連帯経済を推進するグループを見つけ出し、実際の交換や取り引き(連帯市場)を築く手段となる。
 この調査と把握を通して、私たちは、これまで「帝国の経済」によって強いられてきた「自分は無益な人間だ」という思い込みから自らを解放し、すでに身近に存在する力強く自由な空間を認識できるようになるはずだ。

▼私たちの実践に名前をつける
実践事例の調査とマッピングができたら、それぞれの事例をネットワーク化し、当事者が自らを「連帯経済の担い手」として意識化していくというプロセスを始められる。その際に「名前をつける」ということは、とても大切だ。それまで個別に切り離されていた一連の実践に共通の名前が与えられることで、人びとの間で構想や価値を共有することができる。たとえばブラジルでは、「連帯経済(Economia Solidaria)」という言葉は、多様な個人・団体を組織化するための有効な手段となっている。ブラジル国内には「ブラジル連帯経済ネットワーク(RBSES)」という団体があり、生産者や社会的責任ある投資家、消費者、草の根の社会運動を結びつけ、相互扶助と交換のためのネットワーク形成を幅広く行なっている。こうした事例はブラジルだけでなく、アルゼンチンやスペイン、北米にもあり、連帯経済を担う個人や団体が集い、経験を共有し、共通のアイデンティティを築くために定期的な会議やフォーラムを開催している。その結果、多くの人たちが、資本主義的なグローバリゼーションに対抗し、新しい連帯に根差した経済活動をめざす大きな社会運動の一部であることを自覚するようになっている。

▼私たちの実践を結びつける
 これまで孤立していた多様な取り組みの間に、創造的で具体的な結びつきをつくるプロセスは、連帯経済の戦略の核心に位置づけられる。そこでは単に「お互いに知り合う」だけでなく、交換と協力・支援のための経済関係が実際に築かれる。生産者と消費者、マーケティング業者と流通業者、投資家と事業家が結びつけられ、それぞれの役割が再定義される。地域再生の実践者と、資本主義下での「開発」に反対する運動家)が出会うチャンスにもなる。その意味では、連帯経済学は、地域における雇用を生み出し、地元の生産者を支援し、より民主的で持続可能な経済へ進むための地域経済開発の戦略とみなすこともできる。すでに進められているこのネットワーク化は、希望と自由の空間をつむぎ出し、私たちの生活とコミュニティを「帝国の経済」から切り離すための長期的な運動の土台となり得るものだ。
 実際に、ラテンアメリカにおける連帯経済は、一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、大企業主導のグローバリゼーションの影響下で生き残るための対策として現われた。協同組合や地域に根ざした活動を互いに結びつけるという動きが大きく広がっていくにつれ、「連帯経済」の概念は、資本主義を超えるための確実な戦略となっていった。

▼新しい可能性を創造する
「可能性」というものをより強く意識できるようになるためには、概念や構想だけでは足りない。相互の実体験を通じて初めて、私たちは思考や関係、生活の新しいあり方を感じとれるようになる。この運動が成功を収めるには、自分たちの身の周りで基本的なニーズを満たし、新しい可能性を経験できるような、実生活のオルタナティブ(lived alternatives)を築かねばならない。
「ものごとに反対することより、建設的なオルタナティブを生み出すことのほうが、はるかに難しい」とよくいわれる。資本主義による支配的な「経済」の物語を信じていたり、それに代わる「唯一の経済システム」を求めている限り、この主張は正しい。しかし、いったん「別の物語」を手にすれば、資本主義経済の水面下で別の世界の種子がすでにまかれ、成長していることが認識できる。私たちの課題は、身の周りにある希望と創造の空間を見つけ、それらに名前をつけ、より強化し結びつけるための組織化を行なうことで、新しい可能性と関係性を生み出すことである。
こうした創造のプロジェクトは、もちろん、他の多くの社会変革の運動と連動する必要がある。対抗するだけでは不十分であるのと同様、創造するだけでも不十分なのだ。私たちは、多様な実践や運動を含み、結びつけるような社会運動を築き上げなければならない。 さて、結論にしよう。私たちは誰もが「連帯経済学者」だ。私たちは協力して、いままで奪われてきた自分たちの経済を資本主義という名の泥棒から取り戻すことができる。「economics」(経済学)という言葉の由来は、ギリシャ語の「oikos」(家)と「nomos」(管理)、つまり「家の管理」である。誰の家だろうか? 誰による管理だろうか?「私たちの家」であり、「私たち自身の共同自主管理」である。互いに手をたずさえることで、私たちは、連帯の空間としての「自分たちの家」を取り戻すことができる。

原文:“Solidarity Economics: Strategies for Building New Economies From the Bottom-Up and the Inside-Out”
翻訳:編集部

イーサン・ミラー/米国にて連帯経済を推進するNGO「草の根の経済」(Grassroots Economic Organizing:GEO)の中心メンバー。自らも持続可能な農業を行なっている。同団体のウェブサイト:www.geo.coop

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